知の基盤としての数学
大槻, 2014.01.01
数学の面白さを知ったのは中学生の頃だったと思います。初等幾何学に夢中になった覚えがあります。ちょっとした補助線を引くことによって、証明がエレガントにできたり、定規とコンパスを使って美しい図形を描いたりして、世界が開けたような気がしたものです。つい最近まで存命していたコクセター(Harold Scott MacDonald Coxeter)[Coxeter1969]は、晩年まで初等幾何学の研究や啓蒙活動を積極的にやっていました。大学に入り教養としての解析学や線形代数は、さほど感激はなかったのですが、情報科学科での離散数学や位相幾何を学んだあたりから、理論の美しさ、対称性、表現力の豊かさに魅力を感じていたように思えます。
数学は、人間の知を表現したものです。公理や前提条件を設定して、その下で成立する命題を定理として表すので、普遍的な知であることは間違いありません。数学で表せない知があることは確かですが、数学的な定式化を図る努力は常に行うことは意味のある活動だと思っています。数学は裏切らない永遠の知です。
コンピュータ、ソフトウェアの動作原理は論理や計算の理論による数学的な下支えがあるから成立しています。その意味で、ソフトウェアエンジニアリング、コンピュータサイエンスは、もっと数学的なアプローチに重点があってもよいように感じています。
ソフトウェアの素晴らしいところは、人間が自由に概念を操作し、全く新しい世界を構築できるところにあります。人間の抱くイメージ、イデアを扱うという点では数学と同じです。
•新しいソフトウェア、新しい人工物(アーティファクト)を生み出す創造的な活動は、発見なのでしょうか?
•それとも、発明なのでしょうか?
このような問いは形而上学に属する哲学的な事項だと思いますが、これを検討すると、いろいろなことが見えてきます。
数学の世界で、イデアの世界が存在し、真理、定理が実在として在り、人間はそれ等を発見していると見なす立場をプラトン主義と言います。数学的真理は人類が出現する前から在り、人類が滅亡しても在り続けるという考え方です。いわば神が創った完全な世界の真理を、不完全な人間が覚っていくというものです。実際に、多くの数学者はこういった感覚を持っているようです。
プラトン主義者によれば、自然数、整数、点、線も実在するものです。しかし、人類が進化する過程で、数を数えることや、視覚的な空間を認識することが、生き残りの条件として有効であったからこういった概念を身につけることが必要だったと見なすこともできます。もし、犬が進化したとしたら、嗅覚に関わるような、位相空間の概念が実在として認識されていたかもしれません。つまり、数学というのは、人間の生活の中から生まれた知ではないでしょうか? 人類が居なければ、我々が蓄積しているような意味での数学は無いのです。
一方で、数学には、虚数、非ユークリッド幾何学といった人間の日常とは関係ないような発明もあります。虚数やそれに伴う複素関数論が無ければ、量子力学は無いですし、非ユークリッド幾何学やリーマン幾何が無ければ、一般相対性理論は語ることができません。
こうして見ると、発明か発見かという問いは以下のように集約することができます。
•数学の公理には、人間の日常感覚の延長線上の発見的な公理系と、人間が発明した公理系とがあることになります。
•問題は、その公理の集まりを材料として、その先にある世界を説明し、記述するための定理を選択して使う発明的な構成力が必要になることです。
我々が、言語を使う時に、語彙や形式といった材料を使い、それ等を構成してひとつの物語やまとまった作品を作ると見なすことができます。おそらく数学は、言語と同様の一つの表現方法なのです。これは、建築、音楽、絵画、ファッションなども同じように考えることができます。
この材料と構成物との関係は、どちらが先ということではなく、相補的な関係にあります。例えば、物理学と数学との関係は、相互に絡み合っています。ニュートン力学、マックスウェルの電磁気学、アインシュタインの相対性理論、ハイゼンベルクの量子論、ウィッテンの弦理論といった発展の過程の中で、数学としての解析、幾何、位相、多様体、代数なども同時進行的に発展してきています。おそらく物理世界を見る目や観点を、数学は提供していますし、物理世界を説明するために数学は新しい概念を開発し、定式化していきます。数学的活動は「言語ゲーム」なのです。